自我は自我ゲームをするための錯覚であることに気付いたら静かに自我を観察してみる
自我は空、ワンネス、大いなる一つが自我ゲームをするために作られたアイデアです。自我ゲームとはこの身体こそ、この思考こそが私であるという錯覚を前提としたゲームです。自我を使って空があらゆる体験を積む分離ゲーム、不足感ゲームです。自我、思考は常に不足感、孤独感に苦しめられそれを解消しようとあらゆる改善策をひねり出し解消に向かって走り続けます。人間とはいかに苦しいゲームをしているのでしょう。釈迦が解脱以外にこの世の苦から逃れる方法はないと話したのは本当の話です。自我ベースでは人は幸福には至れないよう最初から設定されているのです。そしてそのことに気付いたならば次は自我を冷静に見つめる意識、空に戻ります。これが瞑想であり、ヨガであり、座禅です。
自我を野放しにしていては幸福は一生来ない
自我とは空、全体、ワンネスの存在を自身とは全く分離して考える分離意識、錯覚ですから初期設定から間違っています。そのため自我ベースで幸福を探求しても全く幸福に至れないのです。幸福ではなく一時的な快楽しかえられません。これは大変苦しい状況です。刹那的な快楽がなぜ苦しいかと言えばそこには終わりが無く永遠に快楽を求めていき続けなくてはなりません。そして今は永遠に続きますから貪り続ける人生がただ時間の中で続きます。この状況に終わらせることができるのは地位や名声、お金ではありません。これらは全て外的要素、自我を一時的に満たす要素に過ぎません。解決方法はただ一つ、自我を冷静に見つめ、自我の行動を観察し、再び空、ワンネス、意識が主導権を握る他ありません。自我は所詮思考が作り出した錯覚であることを理解することで自我の暴走に苦しむ日々が終わっていきます。
自我を野放しにしない方法は自我の存在に気付く、ただそれだけ
自我を野放しにしない方法はただ一つ、自我の存在に気付くことです。自我は思考から作られた幻想の存在であることを気付かれることで逆に自己主張が出来なくなります。自我は自我という存在があるという意識、ワンネス、空からの気付きがあることこそ存在の最大の危機なのです。これで純粋な自我ゲームが出来なくなるわけです。
自我同士の関係にどんなにエネルギーを注いでも徒労に終わる
自我は他人(自我)の目を気にするのですが(これは全て自我の安全な存続のため)どんなに他人に良くみられようとこの欠乏感、不足感、飢餓感がなくならないことで八方塞になっていきます。他人からどんなに評価を受けても一向に収まらない欠乏感に打ちひしがれるわけです。自我はもっと豊かになれば、もっと有名になれば、もっと評価が上がればと次々に目標を設定するわけですが次第にそれに疲れてきます。面白いことに自我が考える他人も全て自我ですからこれは幻想、幻想にどう思われようと所詮幸福感とは一切関係ないのです。幸福感は自我が実はなく自身が実は空(絶対幸福)であることを思い出す他ないのです。