思考が作り出すストーリーにどっぷり浸かっても幸せにはなれない
私達がこれが人生だと考える多くは実は思考が作り出したストーリーです。私という概念がこの身体のことを指し実はこれが事実とは異なるというところから人生は狂い始めます。そしてこの私が主人公のこの人生にストーリが生み出され私はこのストーリーにどっぷり浸かるわけです。そしてこのストーリー上で幸せを目指すことになるのです。ところがこの私設定自体が間違っていてこの私は実は私ではありません。私と定めた私はこの身体を示していますが実は私は意識です。今私を感じている感覚は身体の中にはなく体を私と錯覚しているだけです。なのでそもそもが間違っている前提でこのストーリーが作られるところに不幸があるのです。スポーツ選手が延々とゲームに没頭しても勝率が上がらないように、ただただこの人生ゲームに没頭してもゲームの勝率は上がりません。このゲームの質を決めているのは創造主であり私にこのゲームの質を上げる力はそもそもないのです。
思考には人生の質を上げる力はない、なぜならばこの世を作っているのは創造主、空だから
思考がこの世で徹底的に自分の人生を良くしようともがいてもそれが徒労に終わるのはそもそもこの世を作っている創造主は別にいてそれが空、ワンネスです。この空、ワンネスの存在を度外視して幸福を考えてもそもそも幸福は魂、意識、空が感じるものですから思考には追いかけられないものなのです。思考はこの人生ゲーム、ストーリーを必死になってクリアしようとしますがそれではただこの人生、ストーリーをこなしているだけでそこと幸福は全く別の場所に存在します。ワンネス、空、魂が幸福を感じるためには思考の身体ジャックから解放され、空、魂、ワンネスがあるがままに存在する生き方に戻す必要があるのです。
思考に力がないわけではない、、、ただ幸せを感じる場所ではない
人類の歴史の上で思考が発展した役割、脳が発展した役割は大変大きなものがあります。人類は飢餓の歴史を思考の力で克服してきました。それほどまでに人間の脳の力、思考の力は凄いものがあります。ただその一方で思考はこの身体を安全に守るために、人から好かれたい、人気者でありたい、人から評価されたい、集団に属したという仕掛けを作ります。これは全て身の安全を守るためです。すると本来あるがままに体験を積みたかった魂、空、ワンネスである私達の本質と矛盾が生まれ始めます。これが苦、ねじれ構造の始まりまです。だからこそその苦しみを味わった人間はその解決に神や仏、スピリチュアル、算命学などに視点を向けるわけです。これは大正解で思考が考えるままに生きていってもこの先に本当の幸せがないことを分かってきたからです。どうやら思考優先でそのままいってもそこに幸福がないことを魂、ワンネス、空が感じ始めるわけです。
承認欲求の次にある欲求は自己実現、この自己は思考ではない
私はマズローの欲求五段階説が大好きです。特に承認欲求の後の自己実現は大変明確に人間の欲求の変化を記しています。ただ私が考えるこの自己実現の自己とは恐らく人間の身体の自己ではなく、脳が考える自我ではなく、自我の奥に潜むワンネス、空、意識のことだと思います。元々の根本存在がようやくこの世で再び主導権を握る転換期が自己実現と考えます。本当に自分が好きなことで世の中の役に立つことが自己実現の定義ですが、本当のという表現、偽者ではなく本当というところが面白くこれこそ、ワンネス、意識、魂のことだと考えます。私達は思考が考える幸福を追いかけていくとこまで行きますとどうやらそこには本当の幸福がないことを知ります。どうやら幸福は頭で考えて手に入れるものではなく魂、ワンネス、意識が感じるものだと確信し始めます。そうなりますとこの意識をどこまで解放するか、思考と意識の関係をいかに俯瞰してみるかが本当の幸せのあり方になります。