今まで人生で起こった全ては悟り(自己超越)への誘い
どのような両親の元で育ったか、どのような学校生活を送ったか、どのような社会人生活を送ったか、どのような結婚生活を送ってきたか、、、、これら全ての事柄は悟りへの誘いとして完結されます。悟りへの誘いという点から考えると全てが意味のある経験、魂が、ワンネスが、空が求めた経験です。この前には自我は全く歯が立ちません。自我は自分で考えて行動してきたと考えるかもしれませんが選択肢すらもワンネス、空に用意された選択肢、何の経験を積みたいかはおおよそ最初の初期設定(宿命)で魂がワンネスが決めています。
意(自我)に反して苦い経験を積まされているとしてそれすらも魂はワンネスは喜んでいる、
自我である私の意に反して苦い経験を今しているとしてもそれすらも大いなる意識、ワンネス、魂は嬉々として喜んでいます。苦しいという経験はワンネスや魂のままでは経験できないからです。私の苦しいとされる体験はこの地球、ゲームの世界でしか経験できません。私とはこの身体と思っている自我にとってはこの世は苦しいことばかり、叶わないことばかり、手に入れれない物ばかりです。これは苦しみとなりストレスが溜まります。自身をこの身体だけであると思っているだけではこの苦しみは続きます。なぜならばそれは本質、真実とは異なるので矛盾が生まれてくるからです。矛盾の上で幸福を手に入れることは不可能なのです。
どうやら私が思っていたこの私は私ではないと気付く意識が現れると、、、、
もしも今こうして思考している自分自身を私と捉えるならば、思考を停止した状態は私はどこにいるのでしょうか?思考している時の思考が私なら思考してないときもある意識は一体誰なんでしょうか?本当は思考していない時の静寂の意識こそが本当の私です。つまり私とは思考ではなく静寂の意識なのです。思考が私ならば思考を止め時には私はいなくなりますから思考を止めた瞑想中や無我夢中でスポーツに打ち込んでいる時の私は死んだことになります。ところがそこには確実に思考が止まった状態を見つめる意識があります。これが大いなる意識、ワンネス、空、本当の私の姿です。
思考は常に思考こそが私だと、この思考を生み出す身体こそ私だと自己主張を続けるが、、、、
自我、エゴが確立することで私達は食べることが出来ます。思考がお金を生み出す方法を考えてくれ、会社に就職するための戦略を考えてくれ、思考が働くことを可能にしてくれますから間違いなく今の現状は思考の賜物、思考様様です。ところがあくまでこの思考は食べていくための意識の道具です。素晴らしい道具ですが、この道具を私と勘違いしますと不幸が訪れます。なぜならばこの思考は魂が、ワンネスがこの身体を生かすために創られた道具だからです。その証拠に思考を止めても思考がないことを観察する意識は確実にあります。思考が死んでも思考の死を見つめる意識は存在します。